「ダイバーシティ」

「ダイバーシティ」

先日、日本在住のイギリス人の友人と3年ぶりに再会した。いつのまにか70才を超えていた彼は、日本では運転免許の維持に毎年強制的に教習所で講習を受けなければならず、75才以上はさらに認知症検査や目をつぶってでも受かるような実車テストを受けなければならないことに、ひどく腹を立てていた。50年以上も無事故の自分が、左折と右折を間違えるような人達と一緒にされるとは、「まったく馬鹿にしている」と。立腹はもっともだと同情しつつ、「決まってるものなら仕方ないじゃない?」となだめてみたが、腑に落ちないらしい。彼の言い分は「70才や75才だからと一律にテストをするのではなく、個々を見てその必要性を判断すべき」だということらしい。

その後で考えた。イギリスの学校にも校則があり、あるところでは一律ルールも存在する。ただ、同時に多様な生徒に応じた対応も細やかで、例外を認めることもしばしば。生徒はあらゆる「個々の事情」を持って入学してくる。たとえば食事習慣、アレルギー、宗教、国籍、あらゆるタイプの学習障害、LGBTQ+、親が海外に住んでいる、兄弟親類が同じ学校にいる、親が学費に充てる資金に困窮している、芸術や学業に飛び抜けた才能がある、ロイヤルファミリーやVIPの子どもである、英語が母国語ではない、年齢が違う、等々、数えだしたらきりがないほど、生徒達のバックグラウンドは「多様性」に富んでいる。

日本では多様性というと未だ国籍や人種などを引き合いに出して語ることが多いが、ボーディングスクールではそれらは日常でしかなく、今やわざわざ語ることはしない。学校は生徒全員が持つ「個々の事情」の一つ一つを個性・特性と捉え、臨機応変に対応している。その積み重ねが結果的に多様性を認める環境になっているのだと思う。

「75才で一律テストも仕方ない」と友人をなだめようとした自分に反省だ。いつの間にか私も日本でありがちな一律に慣れてしまっていた。聞けばテストも英語で実施する準備もあるそうで、行政としては柔軟性ある正しいやり方をしているつもりかもしれないが、問題は外国人への対応ができるかどうかなく、個人へのアプローチとしては十分かどうか。自分も含め、こういう所から考えてみたら、日本も本当の多様性を持つ社会に近づくのかもしれない。

山岸