解釈は人それぞれでも

解釈は人それぞれでも

今回はイギリスと日本の学校で、文学作品の解釈についてどう勉強するか、私が感じた違いについてです。

 

「ゴドーを待ちながら」という戯曲をご存知ですか?Samuel Beckett作の不条理劇で、日本を含め世界中で上演され、派生作品も多数ある名作です。あらすじは二人の人物が一緒に時間をつぶしながらひたすら“ゴドー”を待ち続ける劇です。途中に様々な会話や出来事が繰り広げられますが、状況は全く進展せず、結局最後までゴドーは現れずに終わるという、不条理劇ならではの腑に落ちない感が残るストーリーです。

 

私はイギリスで学校のDrama(演劇)の授業でこの作品を初めて読みました。ゴドーとは誰(何)なのか?演劇の授業ですが、演じる前にまずこの不思議なストーリーをどう解釈するかを話し合いました。

 

ゴドーは神なのか?

死神なのか?

実はそれぞれ別の待ち人なのか?

あるいは劇を見る人に考えさせる為の単なる記号なのか?

 

生徒から様々な意見が出ます。先生はそこに質問を投げかけ、更に深く考えるきっかけを作ります。

 

ゴドーが神や死神なら、なぜ結局現れなかったのか?

全く移動せず何日も同じ場所で待ち人を、あなたなら待つ?

 

その他に過去に上演された際の舞台装置や衣装を見て、同じ台本でも全く違う世界観に演出されている例も勉強しました。一通り考える材料がそろったところで、生徒同士でペアを組んで1シーンを演じる課題に取り組みます。各ペアでそれぞれ“ゴドーは何なのか”を決めた上でシーンを完成させていきます。全員が同じシーンを抜粋して演じるにも関わらず、解釈の違いによって全く違う演出に仕上がる事が面白かった事を覚えています。ゴドーを神と解釈し、祈るようなポーズを所々に表現するペア、とにかく待ちくたびれている事を全身で表現するペア、はたまたゴドーを学校一厳しかった副校長先生と設定し、口では待っていると言いつつ来なければ来ない方が良いという態度で笑いを取るペア。もちろん最後までゴドーが何なのか答えは出ませんが、自分なりの答えを見つける楽しさや、人によって違う解釈をするからこそ面白いと身をもって体験できました。

 

さて日本の学校でも、国語で宮沢賢治の短編「やまなし」を取り上げた時に、同じような疑問から授業が始まりました。この作品の幻想的な書き出し「クラムボンはわらったよ」は有名ですが、“クラムボン”が一体何なのか、正体は不明です。そこでクラムボンは何だと思うかを先生がクラスに聞くと、何人か意見を言いました。

 

泡だと思います。

水面の光だと思います。

虫だと思います。

 

出た意見に対して、先生は相槌のようなコメントはしてくれますが、更に議論に発展する事はなく、順番に作品を朗読する際もそれぞれの読み手から大きな違いは感じられませんでした。

 

文学作品の解釈は人それぞれですが、解釈するためにどう読むかは人に教えてもらったり、他の人と一緒に考える方が幅を広げられるイギリスの学び方の方が共感できます。

 

長須